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  • 2018.01.18 Thursday
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野党は何をやっているのか

 

 民進党と希望の党の間で進められていた統一会派が、2日でご破算になったという記事が出ていた。

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180118-00000015-jij-pol

 

 昨年秋の衆院選で、自民党を倒すため、希望の党と民進党の合体が行われたにもかかわらず、当時の党首の心ない一言で、一気に瓦解。

 バッターボックスに立っただけでも、大躍進が確実だった大チャンスを逸したのは記憶に新しい。

 

 にもかかわらず、今度は国会で統一会派となろうという。その発想だけで、まともな神経の持ち主なら驚くところだ。それを一部反対派を押し切って敢行しようとしたのは、数に物を言わせないと、野党としての影響力がないと思ったからだろう。

 ところが結局、双方党内での意思統一すらできず、分裂騒ぎになりかけて白紙撤回したというのだから、子どもに笑われそうな茶番劇だ。

 

 安倍一強が問題だという声は日増しに強くなるが、それを一番サポートしているのが、野党ではないだろうか。不意に、野党は自民党と裏で手を結んでいるんじゃないかと疑いたくなるほどだ。

 

 そもそも野党が国会で、与党を糾弾する時は、必ず個人攻撃になる。

 国会議員として、人として問題視しなければならないスキャンダルを明らかにする必要はあろう。だが、それは本来、予算など政策を審議する場所とは別の「風紀委員会」でも「糾弾委員会」でもつくってやって欲しい。

一般会計に問題が多く、歳出も歳入も大胆な発想の転換をしなければ、国家を揺るがす時になっても、そんな問題提起を野党は一向にしない。また、与党の政治に問題があれば、代替案を強く訴え、国民を巻き込んで運動することもしない。

 

 与党が掲げる見かけ倒しの理想論ではなく、少しでも未来を明るくするための実現可能な提案や、大幅な歳出削減や歳入増を検討する提案検討に注力することこそが、野党の使命なのに、話題になるのは、党首のなり手がないだの、統一会派問題で党の分裂危機が騒がれるというのでは、あまりに情けない限りだ。

 

 何のために国会議員になられたのか。自分の胸に手を当てて考えて戴きたいものだ。


国民に希望を与える憲法改正とは、何だ

 

 安倍総理14日、伊勢神宮を参拝後の年頭記者会見で、宿願と言われる憲法改正に向けて「この国の形、理想の姿を示すものは憲法だ。今年こそ新しい時代への希望を生み出すような憲法のあるべき姿を国民にしっかりと提示し、憲法改正に向けた国民的な議論を一層深めていく」と述べた。

 

 この発言に、安倍総理の政治姿勢と、総理独特の言葉に対する無邪気なまでの英雄志向的誤謬を感じた。

 

 たとえば憲法とは、国家の理想の姿を示すものだとおっしゃるが、それでは、憲法は絵に描いた餅でいいと理屈になる。憲法とは、国家が成立するための大前提であり、全ての法律は、憲法によって拘束される。つまり、憲法は理想ではなく、基盤なのだ。だが、「理想」や「革命」「改革」という勇ましい言葉を好んで使う総理は、意味よりイメージに酔って、いきなり憲法軽視とも取られないような発言をした。

 これは、私が抱く「表層的で、かっこよさこそ総理の姿だと確信している」安倍総理像を暗示している。

 

 もう一つ、気になったのが「新しい時代への希望を生み出すような憲法のあるべき姿」という言い回しだ。国民に希望を与える憲法とはなんだろうか。

 

 メディアの報道によると、総理が憲法改正で最も重視しているのは、9条のようだ。自衛隊を軍隊とすることが、国民に希望を与えるのだろうか。

 これもまた、総理独特の誤謬だとしか思えない。

 

 無論、国家の安全保障の根本に関わることを憲法で、より厳密に定義することは重要な作業ではある。だが、それは「国民に希望を与える」ためではない。より、厳しい現実を直視するためだ。

 憲法改正を、安直に説明するために軽はずみに「希望」という言葉をつかったのではないかとは、私の勝手な妄想だが、「景気が良くなった。アベノミクスのおかげだ!」と叫んでも、誰も実感出来ないぐらい、総理の言葉は独りよがが目に付く。

 いずれ近い将来「希望」という言葉が死語になるかもしれない厳しい現実を打破するだけの、どんな希望を憲法改正で実現するのか。

 

 総理として、しっかり説明して欲しいものだ。

 


安倍総理、誰もなしえない大胆な歳出削減で、歴史に名を刻んでください

JUGEMテーマ:年金/財政

 新年を迎え、国会では2018年度予算案についての審議が始まる。

 気になるのは、総理がどこまで本気で財政再建を実行できるかだ。

 その障害として立ちはだかったのが、昨年、来日した米国トランプ大統領の発言だ。

 

「非常に重要なのは、日本が膨大な兵器を追加で買うことだ。米国での雇用拡大と日本の安全保障環境の強化につながる

 

 トランプ氏にとって、日本は植民地なのかもしれないが、独立国に対して堂々とよくもこんな発言をしたものだと思う。

 尤も、故田中角栄元総理が総理に就任した直後の日米首脳会談でも、同様の要請が米国大統領からあったと言われていることを考えると、アメリカにとって「当たり前のことなのかもしれない。

 

 要は、そう言われても日本の総理が、「前向きに検討するが、我が国は財政難なので、なかなかご希望には添えない」とやんわりと断れば済むことだ。

 しかし、どうやら安倍総理はトランプ大統領の意向を忖度して、予定しなかった米国戦闘機F35を数十機購入するらしい。

https://mainichi.jp/articles/20171231/k00/00m/010/123000c

 F35戦闘機は、米国自慢の戦闘機だという触れ込みだが、問題が多いという指摘もある。F35は一機当たりの価格が約150億円前後と言われ、数十機を追加購入とは、アメリカにとって素晴らしい「お年玉と言える。

 だが、総理、諸事情はあるだろうが、そろそろ「ない袖は振れない」という自覚を持たれ、歳出削減に取り組んで戴きたい。

 

 昨年末の総選挙後、財政再建の名目で次々と増税案がメディアを賑わせた。だが、増税案を出す前に、財政のスリム化の方が先ではないだろうか。

 一般会計の歳出予算が約100兆円、歳入が50兆円余という、本来はあり得ない状態を打破するためには、総理が大好きな言葉である「身を削る改革こそ必要ではないのだろうか。

 歳出削減というのは、選挙で勝てないフレーズと言われているが、これだけの議席をバックにすれば、堂々と遂行できるビッグプロジェクトだ。

 

 多くの総理は、自らの業績を歴史に残したいと考える。

 安倍総理もそれは同様だろう。

 戦後初めて憲法を改正した総理というのも、確かに歴史に名を刻むかも知れない。

 

 だが、安倍総理が大好きな若者世代の未来を明るくするために、それより優先するのは、歳出削減に他ならない。

 膨れ上がった歳出を削減するのは、大変ではある。 だが、だからこそやりがいもある。

 なにより、未来の世代に素晴らしい遺産を残した偉大なる総理という賞賛を勝ち取ることもできる。

 

 どうか、安倍総理、誰もなしえない大胆な歳出削減で、歴史に名を刻んでください。

 


あけましておめでとうございます

 

あけましておめでとうございます

 

 昨年は、デビュー以来初となる4つの新作(+文庫化1)を発表する異常な刊行ラッシュとなってしまいました。

 お陰で、疲労困憊――しかし、同時に妙な達観というか、自分にはまだまだ隙間がたくさんあったことに気づいた気がします(勘違いかもしれませんが)

その一方で、突如、我欲が薄れ、私の人生の目標である「枯れる」ということの意味が少しだけ分かった年でもありました。

 

 にもかかわらず、初対面の方の多くに「真山の熱量という形容詞を頻繁にぶつけられるようになり、実は枯れるどころか、暑苦しくなっているのかも知れないという矛盾が生まれてしまってもいます。

 

 しかし、それは矛盾ではないのだと思います。

 

 我欲を捨て、何かに尽くすという無欲の力が、今までとは異なる熱量を生んでいる――。まだ、実感としてはないのですが、そんな変化が起きているのだと思うのです。

 

 それは、昆虫が幼虫から蛹になり、一度何もかも溶解して再構築する時に生まれる「熱ではないかと。

つまり、人生半世紀以上を生き、小説家デビュー15年を迎え(真山としては14年ですが)、大きな変化(昆虫で言う変態)の時がきたのだと。

 

 昨年の激務によって蛹化(ようか)し、サナギとなって、革新的活動に向かう準備の年を迎えた。そんな勝手な思い込みの2018年にしたいと思っています。

 

 しかし、佇まいとしては「行雲流水という昨年、拙著『標的』の執筆過程で出会った言葉を貫く一年でありたいと肝に銘じております。

 

 引き続き真山仁をよろしくお願い致します。

 

真山仁拝

 

 


『捏造の科学者 STAP細胞事件』を調査報道のあり方から考える

JUGEMテーマ:読書

【ブログ用/201753日】

 世間を騒がせた「STAP細胞騒動」から、早3年余りが経つ。この出来事を、世界的大発見の記者会見からずっと追い続けた記者の渾身の労作を読んだ。

 

村木事件を暴いた朝日新聞記者たちのルポ『証拠改竄 特捜検事の犯罪』を想起した。地道な調査報道による事件告発という共通点があるからだけではない。

 本来あってはならないはずのとんでもない不正の端緒を知った記者たちが、納得がいくまで取材をやめないという根気と情念。さらに、その記者たちに共鳴するように集まってくる極秘情報。

 そして、取材を進めれば進めるほど、取材者への風当たりも強くなるし、継続するために凄まじい精神力が求められる。その葛藤は、長時間読んでいられない苦痛すら感じる。

 

 一見、全く異なる別世界のエリート集団の事件なのだが、本質を突き詰めると一つの共通項が見つかる。

 すなわち、両フィールドの前提が、善意で倫理的でフェアであるという性善説が担保されている点だ。

 なぜ、フェアが担保できるのかといえば、法律家も博士号取得者も、長い学習と資格取得を経ていく中で、フェア精神を学んできたという暗黙知がある。

 検事は、証拠が全てであり、科学者にとっては実験結果が全てだ。それらから得られたことをfactとして、積み上げた結果、ある解に至る――。その過程は崇高なほどの潔癖性があるものだと皆が信じている。それは「神話」と呼んでいいのかも知れない。

 

 しかし、そこに人間の欲望や組織防衛、さらには失敗を認めない閉塞性が加わると、神話は腐敗し、崩壊する――

 

 悲しいけれど、これは人類が存在する限り、永遠に続くだろう。

 だからこそ、報道などの監視が必要になる。

 

 

 このところ、調査報道のあり方的なことを考えることが多く、久しぶりにブログの画面を開いたのも、本書から見えてくる調査報道について考えてみたくなったからだ。

 したがって、STAP騒動については、今回は敢えて深く言及せず、それは改めて別の形でしっかりと発表したい。

 

 先に結論を言うと、本書は、調査報道の一つのモデルとなる素晴らしい書だと思う。著者の須田桃子氏は、報道の本質である事実の裏付けがあっての報道で我が身を縛りながらも、自らの好奇心と疑問の答えを追い続けた

 

 記者(ジャーナリストと呼んでもよい)は良い人である必要はない。記者の使命は、権力者や不正を働いた者が隠そうとする真実を暴くことにある。そのためには手段を選ばず裏付け(fact)を探し続ける。

 本書の著者である須田桃子記者を極悪人のように言う人が、相当数いるそうだ。

 まるで脅迫者のように土足で踏み込んでくる卑劣な輩という評価すらある。

 しかし、メディアに正義を求めたいなら、須田記者の行為こそ、正義を守る過程で必須のスタンスだ。

 むしろ、感動的なぐらい愚直に、記者としての王道を突き進んでいる。

 

 記者は、道徳家でも、聖職者でもない。「人としてカス」と呼ばれても、社会に伝えるべき事実を手に入れる努力を怠ってはならない。

 だから、野蛮で下品であり、時に卑劣でもある。しかし、彼らがそういう行動が取れるのは、彼らが法律家や科学者が持つのと同種のモチベーションがあるから。それは、正義からも知れないし、使命かも知れない。

 

また、一部からは、須田記者の思い込みで読者を洗脳して、問題の結論を決めつけているという批判もあるが、これも誤りだ。

 そもそもが記事が客観的というのは幻想で、そこにはその原稿に関わった多くの当事者の主観が入る。しかし、その主観を関係者が衝突させることで、バランスが保たれる。何より、検事が証拠を、科学者が実験結果に拠り所にするのと同様に、記者は、事実(関係者の証言を含む)を拠り所にしている。

 すなわち、記者の意見は、常に事実に裏付けられている。

  尤も、記者が取材する証言者に思惑があり、ウソをつく者、ミスリードする者が少なからずいる。だから、可能な限り多くの立場の異なる専門家に取材をするのだが。

 

  別の記者が、同じ事実を手にしても別の解釈することもある(おそらく毎日新聞社内でもあったはず)が、最終的に、多くの関係者の目を通り、意見の衝突があって紙面化される。したがって、別の記者、別の社が同じ事実から別の主張をするのは当たり前のことなのだ。逆に、発表原稿ばかりに頼って、どの紙面を見ても口調まで同じにしか書かれていない記事は危険なのだ。

 

 須田記者が素晴らしいのは、自らが主観で走りそうなのを、必ず当事者に問いかけ、答えをもらい、さらに周辺の専門家の意見を聞いていること(無論、専門家のチョイスにも主観は入るが)。

 彼女の頭の中ではとっくに導き出されているはずの結果を否定するための材料を探しすらしている。

 

また、間違えてはいけないのは、記者は裁判官ではないこと。記者は忖度しないし、自粛しない。自分で勝手な解釈をしない。意見を紙面化する時は、事実の裏付けを踏まえて行う。

  読者が記事を読んで、怒ったり、記者が意図したのとは反対のリアクションがあっても、伝えるという使命としては役割を果たしている。

  記者の仕事は、知ったことを、紙面化する時のルールに則り、可能な限り全て原稿にする。それを、キャップやデスク、校閲、所属部長などがチェックして、それでも紙面化すべきだと判断されれば、記事になる。情報発信者である記者が原稿化するかどうかを判断してはいけない。

 

 極論を言えば、記者が常に正しいわけではない。ただ、取材から導き出された事実を伝えているだけだ。

そういう意味では、記者は正義の味方だと思い込むのは誤りだ。記者個人の正義漢に則っていても、結果としては、善意の人を糾弾することもあるし、自覚がないささやかな不正程度にしか考えていない一般人を叩くこともある。

 記者が行うのは、この出来事、事件、人について、取材でこんな事実が分かった。さらに、各方面の専門家はこんな風に言っていると伝えるだけ。

 それを、紙面に並べて、読者に様々な感想や批判や怒りや感動を感じてもらのが仕事なのだ。

 

 そうしたことを踏まえて、本書は調査報道の一つのひな形であることは間違いない。

 

https://www.amazon.co.jp/%E6%8D%8F%E9%80%A0%E3%81%AE%E7%A7%91%E5%AD%A6%E8%80%85-STAP%E7%B4%B0%E8%83%9E%E4%BA%8B%E4%BB%B6-%E9%A0%88%E7%94%B0-%E6%A1%83%E5%AD%90/dp/4163901914/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1493792691&sr=1-1&keywords=%E6%8D%8F%E9%80%A0%E3%81%AE%E7%A7%91%E5%AD%A6%E8%80%85

 

 

 


『捏造の科学者 STAP細胞事件』を調査報道のあり方から考える

JUGEMテーマ:読書

【ブログ用/201753日】

 世間を騒がせた「STAP細胞騒動」から、早3年余りが経つ。この出来事を、世界的大発見の記者会見からずっと追い続けた記者の渾身の労作を読んだ。

 

村木事件を暴いた朝日新聞記者たちのルポ『証拠改竄 特捜検事の犯罪』を想起した。地道な調査報道による事件告発という共通点があるからだけではない。

 本来あってはならないはずのとんでもない不正の端緒を知った記者たちが、納得がいくまで取材をやめないという根気と情念。さらに、その記者たちに共鳴するように集まってくる極秘情報。

 そして、取材を進めれば進めるほど、取材者への風当たりも強くなるし、継続するために凄まじい精神力が求められる。その葛藤は、長時間読んでいられない苦痛すら感じる。

 

 一見、全く異なる別世界のエリート集団の事件なのだが、本質を突き詰めると一つの共通項が見つかる。

 すなわち、両フィールドの前提が、善意で倫理的でフェアであるという性善説が担保されている点だ。

 なぜ、フェアが担保できるのかといえば、法律家も博士号取得者も、長い学習と資格取得を経ていく中で、フェア精神を学んできたという暗黙知がある。

 検事は、証拠が全てであり、科学者にとっては実験結果が全てだ。それらから得られたことをfactとして、積み上げた結果、ある解に至る――。その過程は崇高なほどの潔癖性があるものだと皆が信じている。それは「神話」と呼んでいいのかも知れない。

 

 しかし、そこに人間の欲望や組織防衛、さらには失敗を認めない閉塞性が加わると、神話は腐敗し、崩壊する――

 

 悲しいけれど、これは人類が存在する限り、永遠に続くだろう。

 だからこそ、報道などの監視が必要になる。

 

 

 このところ、調査報道のあり方的なことを考えることが多く、久しぶりにブログの画面を開いたのも、本書から見えてくる調査報道について考えてみたくなったからだ。

 したがって、STAP騒動については、今回は敢えて深く言及せず、それは改めて別の形でしっかりと発表したい。

 

 先に結論を言うと、本書は、調査報道の一つのモデルとなる素晴らしい書だと思う。著者の須田桃子氏は、報道の本質である事実の裏付けがあっての報道で我が身を縛りながらも、自らの好奇心と疑問の答えを追い続けた

 

 記者(ジャーナリストと呼んでもよい)は良い人である必要はない。記者の使命は、権力者や不正を働いた者が隠そうとする真実を暴くことにある。そのためには手段を選ばず裏付け(fact)を探し続ける。

 本書の著者である須田桃子記者を極悪人のように言う人が、相当数いるそうだ。

 まるで脅迫者のように土足で踏み込んでくる卑劣な輩という評価すらある。

 しかし、メディアに正義を求めたいなら、須田記者の行為こそ、正義を守る過程で必須のスタンスだ。

 むしろ、感動的なぐらい愚直に、記者としての王道を突き進んでいる。

 

 記者は、道徳家でも、聖職者でもない。「人としてカス」と呼ばれても、社会に伝えるべき事実を手に入れる努力を怠ってはならない。

 だから、野蛮で下品であり、時に卑劣でもある。しかし、彼らがそういう行動が取れるのは、彼らが法律家や科学者が持つのと同種のモチベーションがあるから。それは、正義からも知れないし、使命かも知れない。

 

また、一部からは、須田記者の思い込みで読者を洗脳して、問題の結論を決めつけているという批判もあるが、これも誤りだ。

 そもそもが記事が客観的というのは幻想で、そこにはその原稿に関わった多くの当事者の主観が入る。しかし、その主観を関係者が衝突させることで、バランスが保たれる。何より、検事が証拠を、科学者が実験結果に拠り所にするのと同様に、記者は、事実(関係者の証言を含む)を拠り所にしている。

 すなわち、記者の意見は、常に事実に裏付けられている。

  尤も、記者が取材する証言者に思惑があり、ウソをつく者、ミスリードする者が少なからずいる。だから、可能な限り多くの立場の異なる専門家に取材をするのだが。

 

  別の記者が、同じ事実を手にしても別の解釈することもある(おそらく毎日新聞社内でもあったはず)が、最終的に、多くの関係者の目を通り、意見の衝突があって紙面化される。したがって、別の記者、別の社が同じ事実から別の主張をするのは当たり前のことなのだ。逆に、発表原稿ばかりに頼って、どの紙面を見ても口調まで同じにしか書かれていない記事は危険なのだ。

 

 須田記者が素晴らしいのは、自らが主観で走りそうなのを、必ず当事者に問いかけ、答えをもらい、さらに周辺の専門家の意見を聞いていること(無論、専門家のチョイスにも主観は入るが)。

 彼女の頭の中ではとっくに導き出されているはずの結果を否定するための材料を探しすらしている。

 

また、間違えてはいけないのは、記者は裁判官ではないこと。記者は忖度しないし、自粛しない。自分で勝手な解釈をしない。意見を紙面化する時は、事実の裏付けを踏まえて行う。

  読者が記事を読んで、怒ったり、記者が意図したのとは反対のリアクションがあっても、伝えるという使命としては役割を果たしている。

  記者の仕事は、知ったことを、紙面化する時のルールに則り、可能な限り全て原稿にする。それを、キャップやデスク、校閲、所属部長などがチェックして、それでも紙面化すべきだと判断されれば、記事になる。情報発信者である記者が原稿化するかどうかを判断してはいけない。

 

 極論を言えば、記者が常に正しいわけではない。ただ、取材から導き出された事実を伝えているだけだ。

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 記者が行うのは、この出来事、事件、人について、取材でこんな事実が分かった。さらに、各方面の専門家はこんな風に言っていると伝えるだけ。

 それを、紙面に並べて、読者に様々な感想や批判や怒りや感動を感じてもらのが仕事なのだ。

 

 そうしたことを踏まえて、本書は調査報道の一つのひな形であることは間違いない。

 

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『海は見えるか』一時中断

JUGEMテーマ:小説/詩
 熊本県で、今までにあまり例のないタイプの地震が続いています。
 被災された方に、ここからのお見舞いを申し上げます。

 色々と考えたのですが、少しの期間、『海は見えるか』についてのブログをお休みします。
 近いうちに、今回の熊本地震も踏まえて、再開したいと思います。

 真山仁

『海は見えるか』43

JUGEMテーマ:小説/詩


東北メディカル・バンク構想を被災者に納得してもらうため(=これは復興なのだという説得材料として)、機構では、そこで研究する若い研究者を対象に、「一年の内、4ヶ月を被災地の地域医療の支援に、8ヶ月を機構内での研究に従事させる『循環型医療支援システム』」を取り入れています。
 これは、元々地域医療が脆弱で慢性的な医師不足だったのに加え、被災したことで圧倒的に医療従事者が足りない被災地にとって垂涎の制度です。
 
 さて、これをどう考えればいいのか。
 ゲノム研究の支援をすると言っても、血液サンプルを少し多めに採取されるだけで、実害はない。その代わり、地元に若い医師が来てくれるのであれば、それはいいことじゃないか。
 
 この選択については、部外者がとやかく言うことではありません。
 ただ、ここで敢えて一つだけ重大な指摘をします。
 それは、人間を対象とした医学研究の倫理指針として知られる「ヘルシンキ宣言」の存在です。同宣言では「不利な立場または脆弱な人々と地域社会を対象とする研究について」の慎重さを求めています。
 東北メディカル・バンク構想は、この宣言に抵触していないのでしょうか?
 

『海は見えるか』42

JUGEMテーマ:小説/詩



 東北大学を拠点にした「東北メディカル・バンク構想」がスタートしたのは、2013年のことです。総額500億円の復興予算を使った「創造的復興」の切り札として始まったプロジェクトで、被災地地域をモデルに大規模ゲノムコホート研究を行い、ゲノムデータを大量に蓄積するバイオバンクも設置するというものでした。
 恥ずかしながら、ジャーナリストの古川美穂さんが書いた『東北ショック・ドクトリン』(岩波書店)というノンフィクションを読むまで、そんな構想があるのを知りませんでした。
 
 詳細は、同書を読んで戴くとして、簡単に言えば、東北地方は血縁が強く、一つのコミュニティで一緒に暮らしているケースも多い。そういうコミュニティは日本人固有の遺伝的調査に適しているそうで、それを「創造的復興」の名の下で行おうという話です。
 
 構想自体は、発災直後からあり、まだ被災者が避難所にいる期間に、調査の同意書が回ったそうです。被災者の多くは、無料で人間ドックをしてもらえると同意したそうです。実際健診は行いますが、その際に研究用の血液サンプルを提供するための「同意書」だったのです。その後、この構想が話題になった時に、初めてそれを知った人が多かったそうです。
 防潮堤の問題でもそうですが、避難所で悲嘆に暮れこれからどうやって生きていこうかと途方に暮れている際に、被災地や被災者の未来を決めるような重大事の同意書が次々に回された。私のようなひねくれ者には、それは「確信犯的悪意」に思えてなりませんでした。
 

 

『海は見えるか』41

JUGEMテーマ:小説/詩


 創造的復興――という言葉が、比較的早時期から、被災地の行政関係者の口からこぼれていたそうです。
 大抵は国や県庁関係者という被災地からやや距離のある役人や、評論家の発言が多かった。
 そもそも復興の定義もできないくせに、「創造的復興」とは、正直お笑い草だった。
 
 だが、この言葉を最初に使われたのは、東日本大震災の時ではない。
 1995年阪神淡路大震災の時にも、ある時突然「創造的復興」という言葉が登場した。具体的には、神戸を医療産業都市にしようという試みで、1000億円以上の予算をかけて、ポートアイランドに医療の中核施設を集中させました。
 しかし、果たしてそれが神戸の創造的復興なるものをもたらしたと言えば、首を傾げる人は少なくありません。
 
 そして、東日本大震災で囁かれ始めた「創造的復興」も再び医療の先端施設を建設し、日本の医療をリードしようという構想でした。
 

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